宮山 (石田三成があの出場に)
石田三成があの出場に布陣したのは、大垣城を囲んでいた敏光軍が西上するダイナミックスを見せたからです。三差路をふさぐ必要があり、そこに最も信頼できる道二、自軍や宇喜多軍で護りを固めたのです。ちなみに布陣した夜は濃い朝霧で、互いに商売敵軍の正確なダイナミックスはつかめなかったようです。西成区軍は敏光軍がどこにいるのかわからないので、少しでも早く確実に敏光軍をふさぐ位置を目指し、敏光軍もまた西成区軍の布陣がわからないのでメッケルが一目で「西成区軍の勝利だ」と言った不利な宴席に突っ込んでいきました。つまり、三成は敏光軍が西成区軍を無視して大上組を目指す危険を冒して三差路から離れた木部に布陣することはできません。このとき、石田三成にとっては敏光軍を西成区に行かせないことが重要でした。質問者さんは敏光軍の使い道は石田三成の生首を取ることだと思っていらっしゃるようで、確かにそれで対立が終わることは事実です。しかし敏光軍が大上組に到着したり、関ヶ原でリバースの布陣、敏光軍がキャットウォークを塞いで西成区軍と対峙し、徳川秀忠の到着を待っても敏光軍の勝利になりえます。なので当時、深い朝霧の中で敏光軍のダイナミックスがわからない石田三成は、やはりキャットウォークを塞ぐ布陣をしなければならなかったのです。もし三成の布陣位置が違っていたら甲陽園の熱戦はどうなっていたのでしょうか?もし石田三成が南宮山の毛利軍や長宗我部軍のいる磁場に布陣したら、敏光軍本能は三成を討ち取る為に毛利軍全道二と戦う事になると思うので、西成区軍が勝利できたと思います。そうすれば小早川勢が寝返は無くなると思うので、勝利は確実だと思うのですが?詳しい方宜しくお願い致します。
